膨張する触覚―礒�ｱ真理子の陶芸をめぐって 　　　　柏木麻里

何かに似ているようで何にも似ていない。夢の中の波打ち際に打ち上げられた物体のよう。淡いピンク色をした円みのある作品群、礒�ｱ真理子の陶芸作品「Untitled」のシリーズを見ていると、どこか不思議なもどかしさを覚える。特徴のある形なのに、一瞬目をそらしたすきに、形は朧げになる。見ていることが表面のふくらみに跳ね返され、何かに届かない。そして、見ることはもどかしさにさまようのに、身体の奥には蠕動する、動きの感触がわきおこる。これは一体何なのだろう。

礒�ｱ真理子は一九六四年東京に生まれ、武蔵野美術大学工芸工業デザイン科と、イタリアのファエンツァ国立陶芸学校で陶芸を学んだ。現在も制作のためにイタリアに滞在することが多い。彼女の作品は瓜などの野菜や臓器の形にも喩えられているが、「Untitled」を成り立たせているのは、果たしてそのようなメタファーなのだろうか。

礒�ｱ真理子について語る文章では、よくバレエの経験があることが引きあいにだされる。彼女は「人間が動いたときに発散される空間への働き、ジャンプしたときに空間に広がる空気みたいなもの」に惹かれるという（注1）。身体を動かすという漠然とした意味ではなく、礒�ｱの作品とバレエを通して得られる身体感覚には、もう少し特殊な関わりがあるように思われる。「Untitled」の作品群が並んだ展覧会会場を歩いているとき、ふと以前本で読んだ、バレエ教師の言葉を思いだした。

「鏡を見なくても、身体の中から自分の姿勢と位置を感じとって下さい」

自分の踊りを鏡に映った姿で確認するのではなく、自分の身体感覚によって、腕を伸ばした方向、角度、空間に及ぼす効果を感じとれなければいけない、ということ。空間への触覚によって自分の身体を知り、そこで起こっている踊りそのものを知ること。それは、鏡という離れた平面に映る像を、外から目で見るのではなく、空間の深みの中にある身体を、自分の触覚を中心に測る、ということだ。

目で見て視認できる形、だがまるで目を閉じて広がった感触のような作品。礒�ｱ真理子の陶芸は、まさにこのような触覚的な方法によって形に達している。淡いピンク色の物体は、身体のどこかで起こった感触がだんだんとふくらんでゆく、内側から外へと紡ぎだされてゆく形だ。触覚の中から育ちゆき、未知の何物かに出会おうとして待っている、果て。触覚が身体の中心から広がっていった果てに、形が結んでいる。

「内側に内包する力が外へ向かっていくことで生まれてくる形を探っています」「現れた形と周囲の空気、空間との間に生じるテンションに興味を持ちながら制作しています」（注2）という彼女の言葉は、遠心的ともいうべき存在感を語っている。

何かの対象を眺めてそれを写した形でも、メタファーのようなイメージ操作でもない。また対象に触れたことで皮膚に生じる、外からの触覚だけでもない。自分の身体を中心にして外へ広がり、何かに辿りついたところで形に達する、つまり内側から膨張する触覚こそが、作品「Untitled」を成り立たせている論理なのだ。

陶芸は、このような触覚のあたらしい一面を展開させられるメディアとしてとても興味深い。というのも、「Untitled」を制作する陶芸の技法じたいが、膨張する触覚の担い手なのである。陶芸による立体作品の多くがそうであるように、「Untitled」は紐作りといって、ドーナツ状にした粘土紐を積み上げて作られている。成形後、化粧土を塗りつけ、金属で磨いて乾燥させ、1000度ぐらいの比較的低い温度で焼く。礒�ｱは「作品の突起部分は、ある程度のやわらかさのある時点で土を押すことでできるふくらみとへこみで、その時をのがすとできない、土でないとできない」といい、また「紐作りという、何もないところから積み上げていく仕事」で、彫刻のように既にある全体から彫りだしてゆくのとは制作過程が異なり、陶芸でなければできないのだと語っている（注3）。

紐作りという陶芸の技法は、自分の手元から部分が大きな形に育ってゆく行為、自分の感触が少しづつ育ってゆく行為なのだ。そして自己の中心から触覚をたよりに外界をさぐってゆく、遠心的な存在感の表現は、紐作りで土を積み上げてゆく陶芸のプロセスに一体化している。

礒�ｱ真理子の作品は存在そのものをめぐる表現であるがゆえに、作品を成り立たせている触覚の論理は、おのずと、私たちをひとつの存在論へとみちびく。

作品を貫いているのは、中心からふくらんでゆくやわらかな触覚である。だがこのやわらかな作品を支えているのは、知るということについての、ある過激さだ。自分の身体ひとつ、身体の奥に起こる感触、それだけを知っているという思い、それを知るのと同じ強度では、ほかに何も知りえていない、と考える立場である。

現在の美術や文芸をめぐる言説のうち、作品への造形的な関心や観察よりも、作品や作家を歴史的・社会的文脈の中に位置づけることに有効性をみいだす傾向においては、身体感覚や触覚を表現の根幹とする作品は、その個々の空間への効果と意味を論じられる機会を失ってしまう。

では、そのような身体感覚に拠る表現を、矮小化することなく、有効に掬いとれる論理とは如何なるものだろうか。九〇年代後半に始まる礒�ｱ真理子の陶芸作品、そこに含まれる膨張する触覚、遠心的な存在感といった基準を手掛かりにして、もう一度現在の表現や造形のあり方を考えてみようとするとき、私たちは、文脈的な方法論よりも、むしろ次のような思考をたぐりよせる。

私は空間をその外皮に沿ってではなく内側から生きるのであり、そこに包みこまれているのだ。要するに、世界は私のまわりにあるのであって、私の前にあるのではない。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（『眼と精神』）

もろもろの物は私の身体の延長であり、わたしの身体は世界の延長なのであって、私の身体によって世界が私をとりかこんでいるのである。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（『見えるものと見えないもの』）

一九六〇年代にメルロ＝ポンティが示した身体と存在のあり方（注4）、見ることとと触ることをめぐる考察は、触覚が抱える、関係への過激なまでの誠実さ、私たちが関われるものの微かさと正確さをを担いうる論理なのではないだろうか。メルロ＝ポンティがかつて「見ること―触れることのあいだにある隔たり」（注5）と呼んだものは、九〇年代後半の作品「Untitled」の核心を読みとく手掛かりとして機能しうる基準だ。いまいちど、メルロ＝ポンティの立場に立ち戻ってみるならば、「Untitled」が、外側からの目の論理よりも、内側からふくらむ感触によって形づくられていること、しかしその触覚さえも目で感じとられていることなどを、身体論の広がりの中でとらえなおしてゆくこともできる。

眠りのような中心、言葉でふれることのできない身体の底からのぼってくる、広がってゆく触覚。それは、どこへゆく保証もなければ、どこまで深く何かに関われるのかも、前提とされていない。触ることと見ることの境界では、何かと何かが出会っている。だが、それはあらかじめ設定されたものではないのだ。存在の辺縁は、そのような波のように常に形を変える、触覚の広がりである。膨張する触覚の表現は、私たちの「存在の放射」（注6）としてのリアルさをもつ。そして「能動性と受動性がたがいに蚕食し合っている」（注7）場所、見ることが触覚の辺縁に浸透する作品という場所で、私たちはいま現在もなお、存在と世界の出会いに立ち会っているのだ。