『明空』7号収録


文章     柏木麻里



 自分の書く言葉がいやで、言葉なんて、と思うのに、人に関心をもつとその人の文章を読みたくなる。人がそこにいなくても、その人の文章が手元にあることが慰めになる。
 人の息づかいや体温、視線は、実際に側にいるときには閉ざされて遠いこともある。でも文章を読めば、それをごく身近に感じられる。
 文章はからだのようだ。書いた人の息づかい、声の高低、話す速度、視線の向け方、指づかいや仕草、体温、肉づき。そういうものが、文章を読むと感じられる。
 いま、ここであの人は話をやめて、考えている。視線をあげて、空(くう)を見つめている。あ、ここで言うことをみつけた。考えているときに、からだの中に落ち込む息。ながく静かな息。わたしもほしい。その人のからだの内と外にまたがる部分が、文章にはあるからだろうか。内部から出てきたもの、内部へと辷りこんでいくもの。それに憧れるのだろうか。それこそが、わたしのほしいものだと。
 だとすると文章って何なのだろう。視線を発するまえ、視線がうまれてくるプール。言葉が、まだ温かく湿った喉そのものであるとき。それがどこか遠い所にある、きらめくような世界とつながっていて、精神の広がりから、喉へとやって来る。心もからだもある。もとめてやまないその人の。

 どんな文章でも、論文でも、手紙でも、文章の種類にはかかわりがない。無数の言葉の連結、言葉の選択。人への接し方が語尾に出ることもある。言葉の選び方に他人の存在が意識されている。そのような語尾を育て上げたもの、人、時間が、読んでいるわたしのなかで、風のようにふくらむ。
 封じこめられた時間。書いた人が歩いた時間、人と接した時間、本を読んだ時間も文章の中にある。わたしは、人の、その時間に抱きとられる。植物の胚芽のような時間の中で、芳香を漂わす液体に、わたしも包まれる。人知れず。

 どこかで、庭の囲いがなくなって外の世界とつながっているように、精神は密かに、外の世界、自分ではない人の世界とつながっている。侵されないように気をつけて、でも、つながっている。人一人通らないような、静かな道だけれど、地面も草も空気もつながっている。いかなる囲いも国境も、植物や空を止められないように。
 あなたの庭。でもそれは、ほつれている。ほつれているけれど、囲われている。どこからともなく、あなたの庭を吹き抜けて、わたしへと来た風。頁の上で。

 なぜこんなにも深い無言でいたいのか。この無言は、キーボードで起こされたいのか、鉛筆で書き起こされたいのか。
 退屈で怠惰な時間、閃光のように心を呼吸させる、白い画面に浮かび上がる文字。なぜその文字の列が、心に新鮮な酸素を送り込み、なにかその先に、未来と呼べるようなものがある気にさせるのだろう。
 なにかを疑問に思ったとき、それを他人がどう考えているのかということと連結したいと思うことがある。それを未来と感じているときもある。

 今日いちにち、わたしはいかなる言葉も耳から聞きたくない。無言でいたい。家の中で本を読み文字を書きするけれど、テレビもラジオもつけず、隣から窓越しに入ってくる話し声や竿竹売りの声も遮断したい。なぜかはわからない。なぜ、そのような深い無言でいたいのか。沈黙ではない。風の音、遠くで鳥が鳴く音、貨車の音、涼やかな地虫の音、そしてもうじき蝉の音が聞こえてくるだろう。だが聞きたいのはそこまで。人語は聞きたくない。わたしのなかに人語が充満することがあっても、あるいはほとんどある圧力をもった人語など満ちてはこない普通の日にあって。血圧や勃起する性器のようなものだろうか、人語圧。人語圧が足りない。
 それでもほどける可能性を浅ましくもとめるのはなぜか。新しい白いものを。生き延びてゆける所を。

 白い鉄塔が、早朝の太陽に染まり、小さく金色に光っている。鉄塔と空。鉄塔があると、空は不思議だ。青はより青く、夜空はより暗く見える。鉄塔があると、そこが最果てみたいになる。孤独が高まっている。
 鉄塔は、言葉の代わり。空を言葉で汚す代わりに、鉄塔を見る。鉄塔が空にいろいろと伝言してくれているだろう。気になる。いつも同じところにいるから。高圧な感じもするから。人語の代わりに鉄塔がある。

 猫が目覚め、鳴いている。なにかが、猫を震わせて、猫に自分を気づかせて、猫にあつい血を通わせ、思いだしたように汗を吹きださせ、呼吸させたのだ。猫のからだのなかで、卵のように生まれた、朝。

 失語している時間。しようがないから自分の内側に向かって叫んでいる。なんどもその叫び声を聞いた。電車で遠くから帰ってきて、夜、髪を洗っていると、本当はまだ自分は遠くにいるような気がする。まだ、とっぷり暮れた道をとぼとぼ歩いている途中のような気がする。わたしはまだここに帰ってきてはいないのではないかと、疑念がよぎる。だれも迎えにきてはくれない。あの、長く暗い、埋め合わせられていない距離。それが、自分の内側に向かう叫びの中に、垂直にのびている。

 なぜ、書く言葉だけを許せるときがあるのだろう。どんな発語も、圧力に欠けるとき。口の辺りに唾が、遠い水平線のように満ちるけれど、唇は重いまま閉じている。のみこみすぎたからなのか、望みが矛盾しているからなのか。その矛盾を押し破るほどの圧力が、自分のどこにもない。だから黙っている。
 そうすると、黙ったままで輝いているものたちの庭が、自分を主張しはじめる。黙れば黙るほど、輝きはつよまる。
 南中する太陽。真上から滅ぼして。

 土さえあれば繁茂する。
 言葉を継いで、ぼろぼろになったその先端を指さきで整え整え使い回していく。誰かが落としたそれを拾い、つぎに拾った言葉の先端と、こよりのように撚り上げて使うのだ。そんなふうに、脱いで脱いで、忘れて、いなくなって、また目を開ける。土さえあれば繁茂する、わたしたち。わたしたちが土であるとき、なにが繁茂するのか。
 人から生まれるものは、どのような形をしていても、人でしかない。人がどんなにかなしい場所であっても。

 彼は人間の形をしていない。目の前にある彼のからだをはみだし、迷いだし、漂いして彼はいる。彼の手があるところに彼の手はない。彼の頭があるところから、頭は絶えず揺れている。頭があって両手があって胴体があって両足がある、そういう単純化された「ひとがた」を彼はしていない。だからわたしは見ていると不安になっている。彼は彼の形をしていない。彼のからだを「ひとがた」でとらえて記憶することができない。わたしは彼がなになのかがわからない。
 でも、話している、手のうごきにも、頭の振りかたにも、それぞれに中心があって、その先に、それでも彼が彼であるという統合があるのを、わたしは見つめている。

 遠のいては近づく。いつも気配について書いている。空気について温度について湿度について言葉について声についてまなざしについてもっと多くのものについて。
 なにを言うことも、そこから向こうへ、問うていることだ。

 問うているあなたが、わたしに書かせる。あなたの頬、あなたのまなざし、あなたの話しかた。あなたの発する空気のすべて。
 性器や乳首を勃たせるものはなになのか。それはどこから来るのか。なにがあなたに流れこみ、わたしに流れこんできたのか。最初はいったいどこから。
 あまりにも広い空。

 わたしたちは、知っている人の声を、その人がいない所で聞くことができる。書くことの声、読むことの声。一人ずつの人間の中に聞こえる声。そのことの意味、いとしさ。
 面影が覆う土地、覆わない土地。いとしい人がこの土地のどこかにいると知っていると、電車で通り過ぎる川の辺りにも面影が覆う。いなくなると、川岸も、その上の空もからっぽになる。
 わたしからも、この地上のどこからも、もう奪われることのない声はあるのだろうか。耳の肉にあたたかく湿った訪れをしてくれた声。
 あなたを抱きかえすための文章を書きはじめる、喉、指。






home 明空 7号