小川待子展(銀座・ギャラリー小柳 2000.1.8-2.10)
(文・柏木麻里)
『陶説』564号 2000年3月


冬の終わりに、風はまだ冷たいけれど、光だけが明るさをましたように感じられる日がある。光の春、というそうだが、小川待子さんの個展会場に足を踏み入れると、そんな言葉を思いださせる真新しい光、目を開けたばかりの最初の眼差しのような、ういういしい光があふれてくる。

先の尖った、まばゆいほどに白い器が三つ五つと組み合わされ、水色の美しい釉薬を湛えて並んでいる。植物の群落のようなその集合体は、あるものは釉のガラス質の白が泡立ち、あるものは釉の内に亀裂をふくんで、光に弛む氷にも似た水色が柔らかい。作品が放つ動きは呼吸のように高まり、弛み、あふれ、ひろがろうとしている。

小川さんはこれまで、断面のある割れた尖底の器をモチーフに制作してこられたが、今回の個展では器は割られずに、焼成前に接合されて上向きに並べられている。上向きの尖底の器は90年のデッサンの中にすでにあらわれているのだが、器を自立させたいという思いや、中国古代の三足壺の形に惹かれていることなどが混然となって、接合する作品群につながっているのだという。今回は磁土 を使ったことで、以前の発掘品を思わせるくすんだ色合いとは対照的な白い器となった。その表面の質感は、磁器の冷たい白さではなく、織り上げられたばかりの木綿の布のようにあたたかい。また釉薬のバリエーション豊かな表情は釉の違いではなく、器に注ぐ深さの違いによってできるそうだ。

今回の作品について小川さんは、何よりも「みたしたい」という気持ちがあったといい、「水」「呼吸」「母胎」という言葉をあげる。
  釉薬による泡や氷裂のさまざまなあらわれは、呼吸であると同時に、本来とどめえない動きを宿した、時間の姿でもある。これまでの作品でも時間は大きな要素であったが、今回はあらわれている時間の質が大きく異なっている。以前の破裂した器が、既に満たされたものが破れ、失われようとする時間をとらえたものであったなら、今回の作品群はその時間を遡り、破れる以前のはじまりの姿となっているかのようだ。あふれてもあふれても下から上に満ちてくる呼吸、水。そこには、何ものにも破壊しえない、はじまりそのものの強靱な無垢さが息をあげ、それが展示空間全体に光と新しい空気を放っていた。




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