『明空』3号収録


人称の渦へ―平家物語について     柏木麻里



平家物語を読むとき、きまって感じることがある。読みはじめるとすぐに、リズミカルで絢爛豪華な言葉によって、ありありと目に浮かぶ場面へ連れていかれる。そしてその場面場面が、気がつくと数珠のように―つまり一場面がひとつの珠のように固形化して―つながった物のてざわりを伴って運動していく。人物描写や生々しい会話も魅力だが、わたしはなによりも、「平家」の言葉がもつ、得体の知れない量感と動きに陶酔させられてしまう。

平家物語のもともとの享受形態は、わたしたちが近代小説を読むように、最初から最後まで一気に読破するというケースは少なく、一般的には、ある一巻、あるいはある一章段といった単位で享受されていたという(注1)。それゆえ章段は、その享受の歴史のなかで、独立して語られるにふさわしい、珠のような閉じた形に磨かれたのかもしれない。

章段を読みすすむと、物語の時間の経過とともに、前半の中心人物、平清盛の罪業が積みかさなり、次第に深い悲劇的な渦をあらわにして、平家一門を滅亡へとのみこんでいく。栄華から滅びへと、エピソードの珠をつらねて渦巻き、進んでいく章段の積みかさなりは、そのまま「盛者必衰」「諸行無常」という、仏教的な因果応報観を、立体的に表しているようにも感じられる。

渦には、中心がある。平家物語の渦にも、軸になっているものがあるのだろう。渦に連れていかれるのはだれなのか、それはもちろん平家一門の人々であり、また木曾義仲や源義経など源氏の武士たちでもあるのだが、「盛者必衰」「諸行無常」という渦をのがれられないのは、物語を享受するものたち、すなわち、わたしたち自身でもあるはずだ。

中心は譲られる。中心は、重なりながらずれていく。

「妓王の事」の段は、清盛の寵愛をほしいままにした白拍子、妓王が、清盛の心変わりにあい、年若い白拍子、仏にその地位を奪われることからはじまる物語だ。妓王の場所は仏にとって代わられるが、その後清盛の傲慢さをおそれ、いずれ自分も妓王と同じ目にあうと考えた仏は、自ら清盛のもとを去り、妓王とともに出家して尼になる。栄華も諦念も、だれかに占有された場所ではなく、だれしも同じ「盛者必衰」の宿命をのがれられないのだ、というテーマは、文中の和歌「もえいづるも枯るゝも同じ野邊の草 何れか秋にあはではつべき」や、今様「仏もむかしは凡夫なり、我等もつひには仏なり、何れも仏性具せる身を、隔つるのみこそ悲しけれ」によって強調される。

この段は、物語のごくはじめに出てくる印象的な場面だが、そのすぐ前にある有名な冒頭「祇園精舎の事」の観念に、わかりやすい肉付けをしている。それにしても、「祇園精舎の鐘の声」の一節は、物語全体を貫くテーマとして掲げられているわけだが、これは物語の登場人物の言葉ではない。「驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し」と、わたしたちに告げているのは、物語の外から響いてくる、語り手の声だ。


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平家物語は語りと文字の出あいの文学であるといわれる。平家物語は異本の多いことでも知られるが、それらの諸本は大別すると読み本と語り本にわけられる。今日一般に読まれている平家物語は語り本のほうで、なかでも、応仁四年(1371)三月に覚一検校によってつくられたとの奥書をもつ語り本、覚一本の系統が、広く活字化されて親しまれている。覚一本は、「当道」という平家語りの座組織周辺でつくられた、正本系テクストである(注2)。

では、その平家語りとは、どのようなものであったのだろう。

国文学者の兵藤裕己氏は、『当道要抄』や『平家勘文録』など、中世以来の当道の伝書類にあたり、平家語りにおいてもっとも重要視されていたことは何か、ということを説明している。

平家物語は、我が朝の史記、真俗の清規とも申し侍れば、文讃にひとしくして、諸人の耳にとどくやうに語るべし。(…)哀れなるところをば、我も袖をうるほし、狂言綺語のところをば、我もその身になって、似せつかはしく語りなせるを以って上手とす。                            『当道要抄』

兵藤氏は、自らの「声」の現前において知覚される「平家」の世界に、「我もその身にな」ることが、「平家を語る」行為であると説く(注3)。

「我もその身になる」とは、語る心構えとしての感情移入を意味するものと思われるが、語り本である覚一本テクストには、言語表現上にも、「我もその身にな」っている言葉をみつけることができる。志立正和氏は、覚一本の場面描写から次の一節をあげる。

「今は西海の浪の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、浮世におもひをく事侯はず。さらばいとま申て」とて、馬にうちのり甲の緒をしめ、西をさひてぞあゆませ給ふ。三位うしろを遥にみをく(ッ)てたゝれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途程遠し、思を鳫山の夕の雲に馳」と、たからかに口ずさみ給へば、俊成卿いとど名残おしうおぼえて、涙ををさへてぞ入給ふ。
                                   (忠度都落)

志立氏は、「忠度の声とおぼしくて」の行為の主体が、「俊成であるとともに語り手、さらにこの場面にのめりこむわれわれである」ことを述べている(注4)。このように、語り手と享受者が、登場人物に半分溶けこんでしまうような表現がある一方で、語り手の声だけが、わたしたち享受者にむけて響いてくる部分もある。志立氏は、覚一本に多くみられる「心の内おしはかられて哀れなり」という表現がそれであると指摘する。

今はいとけなきおさなき人々ばかり残りゐて、又事とふ人もなくておはしけん北方の心のうち、おしはかられて哀也。
                                   (小教訓の事)

「おしはかられて哀也」という一節は、北の方に同化せんばかりにしていた享受者の体を、すっと北の方からひき離す。この「対象と一定の距離を保ち、あくまでも第三者としての自己のあるべき位置を堅持しようとする意思作用」は、たしかに、「語り手の座」によるものと理解できる(注5)。語り手・享受者と、登場人物の交叉は、ほかにもみられる。つづけて「小教訓」の段からあげれば、

新大納言は、我が身のかくなるにつけても、子息丹波少将成経以下稚き者どもの、いかなる憂き目にか逢ふらんと、思ひやるにもおぼつかなし。

この「おぼつかなし」の主体は新大納言であるが、そのすぐ後の

(重盛が)「いかにや」と宣へば、その時見付け奉って、嬉しげに思はれたる気色、地獄にて罪人どもが、地蔵菩薩を見奉るらんも、かくやと覚えてあはれなり(注6)。

の「あはれなり」は語り手の視点からの言葉だ。

このように、一人称と三人称は、自在に入れ替わりながら綾をなして、ひとつの段を構成している。三人称に一人称的な語り口を組み入れるのは、平家物語の文体の基本的特徴であるともいわれる(注7)。研究によっては、一人称的な部分に重きをおく場合もあるし、三人称的な部分を強調する場合もあるが、そのいずれか、というよりも、わたしにはそのような、三人称と一人称の入れ替わりそのものが興味深い。

平家物語のテクスト編纂は仏教寺院を中心に、滅び去った平家一門の、鎮魂のために行われた。鎮魂の本来の意味は、たまふり、魂を体に密着させること、遊離する魂を落ち着けることだという(注8)。語りが綾なす、「彼」と「我」の交叉の場は、死者の魂を落ち着かせる場所、死者とわたしたちが、もしかしたら重なりうるのかもしれない場所をひらいている。そこには、近代的な文学作品観とは、かたちのちがう世界、しかしあくまでも日本語にまつわる表現世界が垣間見えてくる。

このような表現の場所を、わたしたちは、どう作り出せるのだろうか。語りと文字の出あいとは、単純に朗読に結びつくものではない。海綿に含まれた水が、さまざまな穴から染みだすような、声、語り、話者、聴き手、文字、言葉、それらの交叉しあったもの。自在に入れ替わる、ゆるやかに混濁した人称、それが混ざりあいながら動いていく、運んでいく大きな渦。ここには、時を超えて、言葉をたよりに経巡っている「わたし」たちがいる。その循環のなかで、生のほうへうまれたり、死のほうへ出ていったりする「わたし」たち。ここに含まれる「わたし」の重層的な出あいの場について、このようなかたちで含みつづける可能性について、いましばらく考えていたいと思う。






1 志立正和「『平家物語』における場面描写の方法」『軍記と語り物』30号、平成6年、1頁。
2 兵藤裕己『平家物語―〈語り〉のテクスト』ちくま新書173、平成10年、筑摩書房、92頁。
3 同書、130-137頁。
4 前掲書注1志立、7-8頁。
5 志立正和「『平家物語』の表現主体―屋代本・覚一本の評語の異同をめぐって―」『軍記と語り物』28号、平成4年、55-56頁。
6 『平家物語上』角川文庫、昭和34年初版、平成8年51版、83-84頁。
7 前掲書注2兵藤、164頁。
8 山下宏明「琵琶法師の平家物語」『国文学』第40巻5号、平成7年、17頁。


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