『明空』2号収録


文字の解凍―浅見隆三の陶芸     柏木麻里



 浅見隆三(1904−88)という陶芸家は、昭和33年の第1回新日展に出品した「白瓷」以後は、生涯にわたって「泥漿
(でいしょう)」と呼ばれる技法とその表現を追究した。
 泥漿とは、陶磁器の原料である陶土または磁土を水と混ぜて液状にしたものを指す。浅見隆三の泥漿作品は、どれも白磁や青白磁などシンプルな単色の器で、色と器形のほかは、塗りつけられた泥漿の動きの痕だけが作品の構成要素である。
 「奄」
(えん)(図1)は昭和34年に制作された泥漿作品だ。小さな口をもつ球形の壺は、下から上へ捲れながら昇る泥漿の運動に覆われている。制作の順序としては、まず球形の壺の形を作り、つぎにその表面に泥漿を塗り重ねていく。だが一見すると逆に、泥漿の包みこんでいく運動が、結果として球形を成しているかのようにみえる。












図1  奄    昭和34年

素材と形、技法と形のあいだには、いささかの乖離も感じられない。泥漿の動きは、単なる表面上の加飾なのではなく、器の形そのものに一体化している。器の形そのものが、抽象的な運動の相として提示されているといってもいいだろう。このような制作意図は、作品タイトルからも読みとることができる。タイトルの「奄」は、「包む、覆う」という運動を意味する文字だ。浅見隆三の思考は、土の運動・器形・文字を一本の線でつらぬいている。

 昭和40年の作品「
(さい)」(図2)では、土の運動・器形・文字の三者を結びつける意識は深化する。
 「」字は「高くけわしいさま」と「白いさま」という意味をもつ。小さな口にむかって、下膨れの白磁壺を幾筋もの泥漿が昇っていく様子は、全体でまさに高くかけ昇る「白」の姿を呈している。
 さらに「 」においては、文字と作品は、その構造のレベルでも非常によく似ているのだ。それはどういうことか。まず文字「」の構造を、偏と旁
(つくり)にわけてみてみよう。「」字の偏は「白」。旁「崔」は「うごくさま、速いさま」を表す。すなわち「」一文字は、「白」(偏)が「うごく」(旁)という構造をかくしもっている。この文字構造がなぜ作品構造と似ているのかというと、白い泥漿とその動きは、それぞれ、泥漿は偏「白」に、塗りつけられる運動は「うごく」意の旁「崔」に対応しているからだ。偏と旁の融合によって一つの文字が成立していること、偏の運動、偏の意味づけを旁が担っていることは、泥漿の運動によって作品が成立していることと相似形にある。




















図2      昭和40年


 作品タイトルに漢字一文字を使用することは、同時代の他の工芸作家にも散見され、当時の『日展史』をひもとけば、流行していたといってよいほど多い。しかしそれらの諸作品は、おおむね文字のもつ雰囲気を比喩的に援用するか、文字の意味を具象的に再現するかがほとんどだった。前者の例としては、「豊」というタイトルで豊満な曲線をもっ作品、後者の例としては、「遭」というタイトルで二羽の鳥が嘴を合わせる文様をもつ作品といったように。これらの例から浅見隆三の作品とタイトルが一線を画し注目に値するのは、雰囲気の類似というレベルにとどまらず、文字の構造と陶芸の構造の深層にまで降りてゆく思考のゆえである。


   *


 おそらく文字の構造の深部には、浅見隆三によって、陶芸の構造深部に通ずる径がみいだされている。
 どのような径なのだろうか。文字とは「ことばを可視的な状態におくこと、時間的にも場所的にも普遍性を与えることが要求され」たものととらえられる(白川静『文字遊心』)。ここに篆書の「具」(図3)という文字がある。これは両手で鼎(三足の器)を奉ずる形であるという(白川静『字通』)。










図3  「具」字    
篆書という文字段階は、字画という文字性が生じているにもかかわらず、まだもともとの形象が透かしみえている。篆書は形象にきわめて近い文字段階であり、形象が文字へと変化していく途上にある。自然の形象が、時間的・空間的に持続性を要求され固着したものが文字なのだ。
 これに対し、逆に文字から形象へ解凍していく働きが浅見墜二の陶芸にはある。文字の構造に土の運動を仮託し、文字の奥にある文字以前のイメージを器の形で現前させること、文字から手で触れられる土の運動へと解凍していくこと、それが浅見隆三のみいだした文字から陶芸へ通ずる径なのではないか。具体的にいえば、解凍とは「」字に固着された「高くけわしいさま」「白いさま」というイメージを、その文字構造「白+うごく」というレベルにおいて陶と結びつけ、泥漿の運動として可視化・触覚化してみせることである。目に見え、手で触れられる「」のイメージを、その構造においても一点の嘘もなくあらわしおおせるということである。
 土は、文字の奥にかくされたものと、おそらく同じ次元を共有している。それは、文字が成立したときに字画の奥に封印されたさまざまな形象―たとえば「具」字であれば実物の鼎、実際の手―と同じ、物質・自然という次元だ。浅見隆三は、土が作品になるということをこう語る。

「人間の歴史よりはるかに古く、何万年もの間地の中に眠っていた土が折角地上に出て陽の光を浴びるのだから」
        (笹山央『点描』111号、昭和52年、8頁。)

 文字以前の形象と土は、同じ古い鉱脈に横たわっている。浅見隆三の手と触覚は、ロクロの上で土を触りながら同時に、土の中をさかのぼり、文字以前の形象、文字の奥にある失われた自然にまで触れえていたのだろうか。文字以前の不可視の物質は土を通って引き出され、「」という作品になる。 
 もちろん一連の泥漿作品は、文字を表現したくて始められたわけではない。浅見隆三にとって泥漿という方法は、ここでは詳しくふれられないが、象嵌・印花・ひも貼付けなどといったような陶芸の技法を通してみちびきだされたものだ。「白瓷」というオーソドックスなタイトルから始まった泥漿作品の、あくまで展開上に出会ったのが文字との対応だろう。つまり浅見が抱いていた陶芸観を、より効果的にあらわせるものとして選択されたのが、漢字一文字のタイトルだったと考えられる。その陶芸観とは、陶芸を土の運動の結果であるととらえる思考にほかならない。浅見作品の形は、あらかじめ外側から発想されたのではない。土の運動と作者の接点にうまれてくるものだ。

「同じ磁器質の土といっても一つ一つ性質が違うから、各々にふさわしい形と釉薬を考えてやらなければならない。」
「無理な形に収めようとすると土が顔をしかめる。」
      (笹山央、前掲書、8頁。)
 「(土との付き合いは)生をかけた、かけがえのない間柄である。こちらが無理な対話を強いると相手になってくれない。お互いが手を組み合わせて(略)。」
     (『現代日本の陶芸』第5巻、講談社、昭和59年、140頁)

このような浅見の発言の端々からも、発想の初めにまず土の性質をおいていたことがわかる。浅見は日展に所属して器制作に徹した陶芸家だが、同時代を生きた、いわゆるオブジェ焼で知られる走泥社の前衛陶芸家、八木一夫(1918−79)の言葉が同じ思考を語っている。

「ぼくらの仕事というのは、形からということよりも、粘土の生理だとか粘土を構築していくプロセスからの導きみたいなもので発展しているわけで、つまり純粋な美術とちょっと違うところがあるんです。」
「土なら土というふうなものが初めから背負っておる一つの生理―グニャッと曲がったり、折れたり、縮んだり―があって、意識の世界から言うたら一つの制約になるけれども、それを逆に自分の利点として、居直ってやったら、思いもかけん自分を見つけることがあるかもしれん。」
      (八木一夫『刻々の炎』駸々堂出版、昭和56年、349−351頁)

 土という素材がまずあって、そこから始まる行為。作者である「わたし」が一方的に素材を加工するのではなく、素材の性質や働きを「わたし」が受けて動きだすなにか。器とオブジェという違い、また所属団体の違いをこえて、浅見と八木は共通して、そのような行為を陶芸の中心においている。
 陶芸家たちの実感に加えて、工芸をめぐる言説に素材とそのプロセスという認識がつよく打ちだされてきたのは、1980年代後半のことである。それ以前の、戦後陶芸の潮流をフォルムや用途の有無からとらえる視点が転換してきたのである。そして90年代終わりを迎えて、このような工芸観はより広い共感を得ているように感じられる。


   *


 文字から陶芸へとひらいた径は、逆に浅見ではない私たち自身が書くこと、詩の言葉へと辿りかえすこともできる。

「日常の中でからだというものへの感覚や意識がうまくつかめなくなっている(略)。だから詩を読む(書く)。そして、ごくまれに、揺さぶられ、一瞬わたしはからだを取り戻す。(略)ピアスやタトゥーに少しだけ似ている言葉。わたしに染み込み、からだの一部になってわたしを支える詩。」
(川口晴美「身体」『現代詩手帖』平成10年6月号、62−63頁)

 詩人の一文に示される、他者からの働きかけを受けてたしかめられる「わたし」の位置は、陶芸の性格とどこか重なってきこえてくる。
 しかし詩の言葉はそれ自体では、陶芸における土にはなりえない。「ピアスやタトゥー」である言葉は、「わたし」でも他者でもなく、その中間にいて他者を受けとめるレセプター細胞のようなものだ。揺さぶるものは言葉ではない。詩を書く場において何が他者になりうるのかは、工芸とその素材・プロセスよりも曖昧模糊としている。





図版は次の各書より転載した。
図1「奄」『日展史22』日展史編纂委員会企画・編集、社団法人日展、1992年。
図2「」中ノ堂一信『近代日本の陶芸家』河原書店、1997年。
図3「具」(「泰山刻石」秦時代)『石鼓文・泰山刻石』二玄社、1988年。



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