メルマガ「さがな。」29号収録 2002年9月
(メルマガ掲載時より加筆)



口が知る、手が憶える  ―黒織部 沓形茶碗―  
               くろおりべ くつがたちゃわん                柏木麻里


織部焼は桃山時代、17世紀に茶の湯の器として登場してきたやきものだ。
  赤茶色、深緑、白、黒で、千鳥や州浜、格子や縞文様などを描いた元気のよい器には、今の食器にも受け継がれるデザインが溢れている。食器棚の中をさがしてみれば、艶のある深緑と赤茶色に塗りわけられた織部ふうの食器が、ひとつぐらいは出てくるのではないかしら。和食のお店にいけば、気がつかないくらい自然に、ルーツは織部焼、というデザインの器が、青菜のお浸しや昆布巻などを容れてテーブルに載っているのではないかと思う。

それほど、今の日本人にとっても馴染みのある織部焼だが、黒と白で塗りわけられた黒織部の茶碗は、あまり現代の食器のなかにはみられないタイプかもしれない。黒織部の茶碗は、履物の沓(くつ)に似たかたちから、沓形茶碗(くつがたちゃわん)とよばれるほど、とても歪んだかたちにつくられているのだ。

桃山時代に、千利休のあとを継いで茶の湯の指導者となった古田織部の茶会には、「セト茶碗、ヒツミ候、ヘウケモノ也」と、歪んだ、ひょうげた茶碗が使われたことが記録されている。「セト」というのは、瀬戸、現在の愛知県地方のことで、織部焼の焼かれた美濃窯のある地域をさしている。『宗湛日記』といって、博多の豪商、神屋宗湛という人が方々の茶会に参加し、出席した顔ぶれや使われた茶道具を書きのこした茶会記に、この記録がある。織部焼をうみだした桃山時代の人々にとってさえ、「歪み」は心にとまるほどの特徴だったのだ。

ぐにゃりと歪んだ縁、大きな円筒形をした茶碗をのぞき込むと、内側は吸いこまれそうな真黒に塗られている。外側は、黒と白に塗りわけたうえに、黒地には白で、白地の部分には黒で、太い筆遣いの素朴な文様が描かれている。格子柄だとか、丸や直線の簡単な文様が多い。

黒織部の茶碗を、美術館の展示ケースの外から見れば、こんな姿をしているのだが、一度だけ、この茶碗を手にとり、お茶を飲んだことがある。

以前ある美術館でインターンのようなことをしていた。やきものの勉強には、見るだけではなくて、手で触れることも、とても大切。いくつかの器を触らせてもらったことがあるけれど、口をつけて、いつもは美術品ということになっている器を食器として使ったのは、そのとき一度きりだった。

落としたり壊したりしてはいけない、と緊張しながら、お茶を点ててもらった黒織部の茶碗に向かう。大きくて、分厚く重そうで、見るからに手に余る感じ。今の時代は、お茶といえば女の嗜みのように響くけれど、織部の茶碗がつくられた桃山時代には、茶席は時として戦国大名の政治の場でもあった。茶道具の背景には、男の世界がある。女の私の手には、黒織部の茶碗は、触ってみる前から、つかみにくい、重そうと感じるけれど、もともと女が使うことは想定されなかった器なのかもしれない。

お茶の先生に「泡が消えないうちに」と言われて、手をのばす。やっぱり持ちにくい。それになによりも、あまりにも縁が歪んでいて、いったいどこから口をつけたらいいのか、わからないのだ。
 小さい手にはつかみきれない。覚束ない手つきでも、とにかくしっかりと、しがみつくようにして持たないと危なっかしい。とりあえず茶碗を口のほうにもってくる。ここから飲んでみようかという場所をきめる。そして口で、さがしていく。口で、あ、この辺りかな、と茶碗を探っていく。くちびるで茶碗につかまっているような感じがする。

口をつけると、縁が分厚く、うねるように歪んでいて、はっきり言ってとても飲みにくい。桃山時代のやきものは、茶碗にかぎらず、歪みのある、しっかりと厚みのあるものが多いけれど、これほど飲み口を厚くしたものは、黒織部ぐらいだ。くちびるに対して、親切に作られてはいない。今、私たちの身の回りにある茶碗やカップは、飲み口が薄くできていて、くちびるをほんの少し開けば、やすやすと液体が流れ込んでくる。でも、黒織部の茶碗は、くちびるを少し開いたぐらいでは、飲むことができない。飲み慣れない私には、茶碗をくわえる、ぐらいの仕草が必要だ。

織部の茶碗の大きさは、身の回りにある食器のそれとは違う。たとえば丼が大きいのとは違う。丼が大きいのは鉢が開いているだけで、縁は薄いから指をかけやすいし、下のほうは細くなっているからこれも手に収まる。

黒織部はもっと、とにかく必死にしがみつかないと、たいへんなことになる、そんな感じがする。だから、その茶碗を使う、茶碗を自分の小さい手で持ち上げ、顔のほうに近づけ口をつける、そして口をつけたところから、中身のやわらかい舌触りのお茶をすする、という行為は、拒まれながら仲よくしていくような不思議な感じがする。

現代の器は、いろいろな形や大きさがあるようにみえて、じつは人間の体や使い方に合った大きさやバランスが、きちんと考えられているのだろう。使いにくいものなど商品にならないのは道理だ。使いにくい食器は、見た目に惹かれて買い求めても、使っているうちに、どうも飲み口がおいしくないとか、表面の感触が手に合わないとか、使い勝手が気に入らないことで食器棚の奥へと追いやられてしまう。使いにくい器は不快であり、使わなくなる、それが普通の食器の理屈だと思う。

古い道具類、古陶磁だとか古民具だとかも、何世代にもわたって使われ、使いやすいものだからこそ今の時代まで残ってきた、と説明されることが多い。それは、外見だけがよくて内実、つまり人が使うということに配慮のない、現代の粗製濫造品に対する批判としても語られる。
 たしかに、道具が使いやすい、ということは、とても上等なことだ。それを全部承知したうえで、でも、本当に、使いにくいということは意味のないことなのだろうか、と思わせたのが、たった一度ほんの数分触れていた黒織部の茶碗だ。
 飲みにくく、口に対して親切にできていないからこそ、茶碗を、そしてなにか液体を飲むということを、とても意識させる。

口の感触で、知らないものを知っていく。歪んだ縁に、つかまるように接したくちびるをわずかにずらせば、またちがう形、厚みの感触が訪れる。私の目でも頭でもなく、まず口が、茶碗を知っていく。

飲む、という行為も、無意識にすんなりとは行われない。飲みにくいからこそ、飲む、ことが意識にのぼる。ほんのわずかに点てられた、あたたかいお茶を飲む短い時間に、「茶碗」とか、「お茶を飲む」という言葉ではない、もっと生々しい行為をしたように思う。頭のなかにある安心できるイメージをなぞるのではなく、何だかわからないものを知っていった。
  目を瞑って、どこかを走っているような時間だった。

きっと、使いやすいから愛されてのこってきた器ばかりではない。使いにくいから、使う人間になにかを体験させ、感じさせ、知らせる器がある。たぶん何人もの人間が、あの茶碗の使いにくさを口で体験し、そして何事かを知ってきたのだと思う。
 私はその美術館に通わなくなったし、同じ黒織部茶碗でお茶を飲むことは、もうないだろう。それでも、私は、あの茶碗と一緒にいた、と思う。

口で知るやきもの、手で知るやきものがある。というより、やきものは、目で、と同じかそれ以上に、体の振動、移動、肌の感触、体への抵抗で知っていくことができる。そういうふうに体験させる装置でもある。

一度手で触れてしまうと、そのあと二度と手にとることがなくても、展示ケースの中に並んでいるのを見たときに、触れた器だけは他の器と違う。手が思い出すのだ。
 口で知っていく、手が憶えている、というのは、とても幸せなことでもあるのだけれど、でも、どこかに、かなしい、不安定さがつきまとう。言葉にして記録することや、目で見て覚えることよりも、もっと覚束なくて、他の人と共有できず、自分自身とも、言葉によって共有することができない。

誰によっても、確かめられることのできない、記憶。本人以外の誰も、「それは本当だよ」と言うことのできない記憶。本当はいつも、どんなものとも、出会うそばから、別れていくのだと思うけれど、目や、言葉や頭はもう少しそういうことを私自身に対して隠してくれる。でも手の肌や口の粘膜は、言葉を喋らないから、はっきりとはしていないけれど、触れた、離れた、という直截のことを私に伝えてしまう。

触れて、離れて、つかまって、放して。でも、わすれない。








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