メルマガ「さがな。」47号収録
特集「詩テキに料理」
2003年6月



野菜たち、果物たち             柏木麻里




野菜の手触り、切ったとき、手で裂いたときの感じ。料理というと、まずそ
れが思い浮かぶ。それからレモネード作り。ガラスのレモン絞り器で絞る。グ
ラスに注いで、絞り器を流す。種が流し台の中に落ちる。レモンの種は、なか
なか滑らかに流れていかない。流し台のツルツルした表面にくっついてしまう。
種は一度実を離れてどこかに着地したら、そこから簡単には離れない。そこで
発芽しようとするのだろうか。

体調が悪いと、野菜が放つなにかの粒子みたいなものに負けそうになる。何
かのエネルギーがすごく気持ち悪くなる。野菜に負けそうだなと感じる日は、
料理をするのが面倒になる。

朝食が好きだ。毎日ほぼ同じ物を食べる。野菜と果物とトーストと紅茶。お
いしい朝食を食べていると、楽観的な物質が体の中に湧いてくるようだ。体の
中になにか変化をもたらすのは、食べること、飲むこと、排泄すること。朝起
きて水を飲むと、食道を通って胃らしき場所へそれが落ちていくのを感じる。
そして即座に手足にまでなにかが向かっていくように感じる。

りんごが日増しに十円ずつ高くなっているみたいだ。梅雨目前のりんごは、
冬に比べるとおいしくない。かわりに柑橘類がおいしくなる。グレープフルー
ツとか。近所にグレープフルーツの木がある。枝に木札が下げてあって、今年
初めて花が咲いたと書いてある。グレープフルーツの花は、驚くほどいい匂い
なのだ。柑橘類は香水の材料にもなるけれど、あんなにいい匂いは、ちょっと
かいだことがないと思うほど。ほんの四、五日で透明感のある匂いは褪せてし
まったが。

バナナ。職場での昼食に、よくバナナを食べる。皮をむくと、同僚が、いい
匂い、幸せになる匂い、と言う。皮はすぐに黒くなるけれど、実は不思議と守
られて醸成する。確かに幸せな味だ。子供の頃にバナナを食べてうれしかった
気持ちと重なるのかもしれない。

フィリピン産マンゴーも今わりと安い。五個で600円。りんご一個が今日は
168円だったから、それに比べると意外と安い。マンゴーも幸せな味。やわら
かい皮をむいてから、切らずにそのままかぶりつく。大きな種を真ん中に、果
肉はとろけるようだ。舌にやさしい感触とわずかな酸味、そして香りで幸福感
に満たされる。ちなみにマンゴーがおいしそうな映画はトラン・アン・ユン監
督の「夏至」。

何でもゆっくり切るので、包丁で手を切ることは滅多にない。でもマンゴー
の実を切ろうとして指を切ったことが二度ある。野菜や肉には生真面目な論理
のようなものがある。その筋目に沿って切っていればまず間違いない。しかし
ある種の果物は、ふいにやわらかくなり、ふいに種にぶつかり、包丁は予想外
の果肉に滑り、手を切る。果物の理屈は野菜や肉と違うのだなあと思う。種が
あるからだろうか。自分の子孫を宿した状態の肉は店頭にない。でも果物はい
つも、果肉の中に見えない種をもったまま店頭にならぶ。

昨年の今頃、青森に友人を訪ねた。友人夫妻は休みをとって私を森や海に連
れて行ってくれた。彼女たちは、湖のほとりに自生しているミントを採り、そ
れを持参の湯沸しで沸かして、ミント・ティーを淹れてくれた。青く光る不思
議な色の湖には朽木が沈んでいて、ニジマスを駆逐してしまったという外来種
の魚影などを見ながら、辺にしゃがんで熱いミント・ティーを飲んだ。帰り道
には桑の実を枝からつまんで食べさせてくれた。ちょうど季節だということで、
崖を歩いていって山椒の実をたくさん採った。佃煮にするのだそうだ。採った
ばかりのまだ緑色をした山椒の実は、若い爽やかな匂いがした。

木にはどれも人のつけた名前があり、食べられる植物とそうでない植物があ
ること、世界はそういうもので構成されているのだということに、東京で暮ら
している自分は、ついていけないような遠さを感じた。

この間は、山梨の知人から、間引いた青菜のお裾分けにあずかる。長い根を
落として洗い、さっと茹でて、ごま油と塩で食べる。お浸しそのものもそうだ
が、茹でたお湯までが香ばしい、いい匂いでいっぱいで、何度も匂いを嗅いで
しまう。

野菜や果物を、見て、触って、洗い、ちぎり、皮をむき、切り分け、盛り付
け、食べることは、私には、今日がきのうとちがうということを感じさせる。
バナナ一本一本、りんご一つ一つのちがいもある。バナナの皮をむいたときの
固さ、やわらかさ、筋の具合。毎日包丁を入れるりんごの形、色、蜜の量、盛
りの時期とそれを過ぎた時の味。食べたあとには忘れてしまう。でもまた翌朝、
わずかなちがいを感じながら食事の支度をする。ただそれだけなのだけれど、
いとおしい。




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