メルマガ「さがな。」38号収録
特集「詩が生まれる場所」
2003年1月



ゆらゆら揺れる世界の果て             柏木麻里



居場所がないような思いをしているときに、詩がうまれる。

なにか、とらえようのないものに惹かれたときにも、それがわたしの中に入っ
てきて、わたしの中にそのもののための場所ができて、うまれる。たとえば夕
方の雲とか、ふとした、ひっかかっている思いとか。

でも、わたしの内側だけではなくて、外側にも「場所」は広がっている。心や
体の内側ではなくて、ひとの体の外に広がる場所は、詩がうまれることと、ど
う関わっているのだろう。

最近、昔の和歌や俳句をよく読んでいる。彼らの歌がうまれた場所は、どのよ
うなところだったのだろう、と考えてみた。
多くの歌が、歌合せの場でつくられた。たった一人の空間ではなく、他人も、
ほかの言葉も存在している場所だ。本歌取りの歌では、すでに存在した歌の世
界の上に彼らの歌がうまれている。だから、彼らの詩がうまれてくる場所は、
過去に詠まれた歌の上、という場所でもあった。

平安の歌にまつわる場所のひとつに、京都の「宇治」がある。藤原頼通が、こ
の世に浄土を顕わそうと、平等院鳳凰堂を建てた場所だ。そもそも宇治川を渡
ることは、京の外に出ることであった。地理的な条件に加え、この地は古くか
ら極楽浄土につながる場所ととらえられ、都の「うち」「そと」という音の連想
からも、宇治は世界の「境界」と考えられていた。おとぎ話のようで、本当か
しら、と思っていたのだが、最近、ふと実感をもって受けとったことがある。

『新古今和歌集』を読んでいると、恋歌の巻に、死への傾きをもった歌がいく
つも撰ばれている。何首もの歌が「もうこの世は終わるのだから」と言ってい
るのだ。

  いつまでの命も知らぬ世の中に つらき歎のやまずもあるかな 

  明日知らぬ命をぞ思ふおのづからあらば逢ふ世を待つにつけても

激しい恋情の果てに死をみるのではなく、恋があるこの世自体が、自分の命そ
のものが明日をも知らない、という意味の歌だ。恋も、自分も、相手も乗って
いる世界の平面が、斜めになって、そこから命が零れ落ちていくような傾斜が
ある。これは『古今和歌集』に撰ばれた恋歌とはかなり違う。
編纂した歌人たちが、文化だけではなくて、政治と社会の中枢でもあった時代
が終わりをむかえつつあったことと、それは無縁ではないだろう。『新古今和歌
集』は、鎌倉時代初期に編纂され、貴族文化の終焉を告げる和歌集ともいわれ
る。

「宇治」は本当に存在したのだろう。「世界」を内と外にわける境界の場所、
そしてわけられる境界のはっきりした「世界」は。
歌人たちは、過去に詠まれた歌の重なり、という世界のうえに立ち、世の終わ
りを感じながら、歌を詠み、歌を撰んだ。
彼らの歌のまわりには、「世界」の境界、果てが透明にやわらかくうねりなが
ら揺らめいている。

さて、宇治が境界の地であるのに対して、彼らが存在していた京は、定冠詞を
つけたくなるような「都」であったのだろう。
英国の片田舎に、"the River""the Church"と、固有名のない、ただ定冠詞
だけのついた川や教会があると読んだことがある。小さな村落で、ただひとつ
だけの川、ただひとつだけの教会、だから名をつけ区別する必要はなくただ「川」
「教会」とだけ呼べばそれで人々にはわかる、そういう世界。
確かな手ごたえのある世界に感じた。自分の肉体が、よくわからないものへ拡
散するのではなく、外側に存在している「世界」によって、しっかりと確かめ
られるようだ。教会のあるヨーロッパの旧市街地や、日本の城下町に行くと、
世界が求心的に、中心にむかって盛り上がって存在しているのを感じる。それ
はまるで新鮮な卵が、黄身を高く盛り上げ、周りを透明な白身で囲んでいるよ
うだ。
ただひとつの、かがやく黄身を抱いた卵。

江戸時代の俳人与謝蕪村の俳諧には、和歌や物語などの平安文学と漢詩が基底
をなしている。けれど蕪村の「世界」は、現代とは比べものにならないにして
も、新古今の世界よりも、平たく広がっているように感じられる。
それを詳しく述べる余裕はないが、高橋睦郎さんが書いた「短歌・俳句におけ
る古と稽古」
という文章を読んでいたら、俳諧について、西行という恋を断念
した歌人があって、そのうえに成り立ったものだ、という。
高橋さんは、恋が透かしみられているところが、日本の和歌が、お手本とした
中国の詩と違うところ、という。平安の歌にある、透明な、言葉と音声によっ
て結ばれた、土地の結界のようなものが、俳諧ではなくなっている、もっと広
く平らな土地の上に人間がいるという感じは、このことに何か関係があるのだ
ろうか。

世界の果てを囲む、透明なうねりは、黄身を囲む卵の白身なのかもしれないし、
人間から、生きものから分泌される気体や液体なのかもしれない。それは恋に
も、性愛にも関わっている。恋、と限定しなくても、人の匂いのする、気配の
あるところ、そこにもやもやと揺らめいているもの、わたしの生きる「世界」
の「果て」は、そういう見えないものでできている。
詩がうまれるのを、みまもっている透明な果てが、言葉と一緒に紡がれてくる。






※高橋睦郎「短歌・俳句における古と稽古」『詩歌と芸能の身体感覚』
 (「短歌と日本人」W)岩波書店、1999年。





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