『明空』8号収録


信じさせられる体―詩篇、アルヴォ・ペルトの音楽     柏木麻里



私の音楽は、あらゆる色を含む白色光に喩えることができよう。プリズムのみが、その光を分光し、多彩な色を現出させることができる。私の音楽におけるプリズムとは、聴く人の精神に他ならない。  (アルヴォ・ペルト)


アルヴォ・ペルト(Arvo Pärt, 1935-)は、バルト海沿岸にある旧ソビエト連邦の小国、エストニアに生まれ、首都タリンの音楽学校で学んだのち、放送局のレコーディング・ディレクターとして働き、一九六一年に作曲したオラトリオ「世界の歩み」により、モスクワの作曲コンクールに優勝、一九六八年より作曲家としての活動を本格的に開始した。現在はベルリンに住んでいる(注1)。

  ペルトは、一九六七年にはじめて、東方教会の単旋聖歌を聴いて以後、祈りとしての音楽へと向かう。音を極限まで切りつめ、ペルト自身の言葉「ティンティナブリ(鈴鳴らし)の様式」で作曲された音楽は、単旋聖歌風のシンプルな音の組み合わせを、ほとんど同じリズムで、はてしなく反復する技法だ。(注2)

一九八〇年に作曲された「デ・プロフンディス(深淵から)」は、旧約聖書の詩篇のひとつに旋律をつけた、四人の独唱、オルガンと打楽器のための作品で、詩篇はラテン語で歌われる(注3)。


詩篇 第一三〇篇


深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。

わたしは主に望みをおき
わたしの魂は望みをおき
御言葉を待ち望みます。
わたしの魂は主を待ち望みます
見張りが朝を待つにもまして
見張りが朝を待つにもまして。

イスラエルよ、主を待ち望め。
慈しみは主のもとに
豊かな贖いも主のもとに。
主は、イスラエルをすべての罪から贖ってくださる。


Psalmus 130

De profundis clamavi, ad te Domine;
Domine, exaudi vocem meam.
Fiant aures tuae intendentes
In vocem deprecationis meae.
Si iniquitates observaveris, Domine,
Domine, quis sustinebit?
Quia apud te propitiatio est;
Et propter legem tuam sustinui te, Domine.
Sustinuit anima mea in verbo eius;
Speravit anima mea in Domino.
A custodia matutina usque ad noctem,
Speret Israel in Domino;
Quia apud Dominum misericordia,
Et copiosa apud eum redemptio.
Et ipse redimet Israel
Ex omnibus iniquitatibus eius.

曲の冒頭「深い淵の底から(De profundis )」 は、とても低い男声でゆっくりと始まる。2行目の「主よ、(Domine)」という呼びかけは、高く澄んだ男声にかわる。「わたしの声(に)(vocem meam)」は、二つの単語を、ひとしく揺するように、歌われる。高低の男声が交互に歌いついでゆくこの作品は、抑制のきいた反復的な旋律が大部分を占めるが、六つの言葉に、音楽による明らかな強調がなされている。六つの言葉とは、「赦し」「望みをおく」「待ち望む」「見張りが朝を待つにもまして」「慈しみ」そして「贖い」である。

抑制された旋律の中に用意された、音楽的な強調を積み重ねていって、聴く者はいつの間にか、意味の中に坐っている。言葉を包むように、救うように存在する、現われる、支えに来る、音。この音楽に包まれている時、聴く者は疲れを忘れてここに坐っていることができる。もてなされ、慰められ、答えを与えられて。

ラテン語の詩篇7行目「propitiatio/赦し」と8行目「sustinebit/望みをおく」の部分は、言葉と声の裏側を、規則的な階段状の音が支えて昇り降りする。そうして、声の、曲線状の滑らかで超えやすいカーブではなく、オルガンの、金属的に澄んでいながら、太く温かい音が徐々に、理性的に、上昇を用意する。10行目「Speravit/待ち望む」では、それまで登場しなかった種類の和声が聞こえてくる。

詩篇第一三〇篇は、神の助けを待ち望む「悔い改めの七詩篇」の一つである。元々は罪を巡る個人の嘆きの歌であったが、イスラエルの民への呼びかけが加わったことにより、会衆の使用できるものとなった。罪の赦しと、将来への希望を与えるところから、葬儀に読まれることも少なくないという(注4)。

11行目の一文「A custodia matutina usque ad noctem/見張りが朝を待つにもまして」には、前提として、書かれていない夜の圧倒的な量が含まれている。「見張り」とは、神殿や街全体を守る夜警のことであり、夜明けは、夜警がその任から解放され、やっと休息することのできる時間だ(注5)。ペルトの曲では、"A custodia matutina "「ア・クストディア」の「ア」の音に、まだ現われていない夜明けの光が、突如として差してくる。それまで抑えた反復が続いてきた曲に、ここできわめて調和的な和声が響く。まだ現われていない、心の中で闇の中で待ち望まれている、だからそれだけ強い光が、わたしたちに差す。

曲中、もっとも大きく歌われるのが、13行目「misericordia/慈しみ」であり、14行目「redemptio/贖い」の後には、神秘的で東洋的な響きを広げて、銅鑼が鳴らされる。「贖い」を与える、顔を見ることのできない「主」の存在を感じさせるように。

詩篇の元々の言語であるヘブル語も、またラテン語も、わたしたち日本人の体でないとしても、和声の調和が、わたしたちを連れていってしまう、そこへ。それが信じられている場所へ。それを信じている体にしてしまう。

詩篇の言葉は、「わたし」という一人の人間が発するという形をとるが、この曲では、四人の声が和声をなして歌う。和声は距離だ。その音、自分の音と、ほかの音との距離をたえず感じながら歌い、鳴らしている。自分が下がることが、もうひとつの何かが上がることであるとき、「わたしたちは昇っている」と感じられる、そんな距離。四つの声によって、詩篇は、一人称でありながら何倍にも膨らみ、広く高くわけ与えられている。

魂、という言葉は、頭も心も含めた肉体が苦しめられないと出てこない言葉なのかもしれない。わたしは、あなたは、わたしたちは、待ち望む。ありえないものを。ありえない、あってはならない、正義だとか、理想だとかの実現を。その実現を望み、信じる、ということ。いつのまにか、信じるように書き込まれていたわたしたち。それを拭うことができないまま。


     *

出会いの予感がある。いつもわたしと一緒にいるこれは誰だろう。本当に時々だけれど、ものを書き終わったあとに、わたしではない人と会っていたような暖かい残滓がある。誰もいない部屋でひとりで書いていたはずなのに、わたしは誰といたというのだろう。誰でもありえない、ということにおいて、神の気配のような。それは誰でもなく、誰なのか、わかることもないのだと思った。今もそう思う。

神は、解釈をこえて、歴史をすり抜けて、どんな形でわたしたちの隣にいることができるだろう。詩篇第六三篇は、ダビデがユダの荒野で歌った歌で、荒野における神との具体的な交わりが述べられている(注6)。


詩篇 第六三篇


神よ、あなたはわたしの神、
わたしは切にあなたをたずね求め、
わが魂はあなたをかわき望む。
水なき、かわき衰えた地にあるように、
わが肉体はあなたを慕いこがれる。
それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、
聖所にあって目をあなたに注いだ。
あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、
わがくちびるはあなたをほめたたえる。
わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、
手をあげて、み名を呼びまつる。
わたしが床(とこ)の上であなたを思いだし、
夜のふけるままにあなたを深く思うとき、
わたしの魂は髄とあぶらとをもって
もてなされるように飽き足り、
わたしの口は喜びのくちびるをもって
あなたをほめたたえる。
あなたはわたしの助けとなられたゆえ、
わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
わたしの魂はあなたにすがりつき、
あなたの右の手はわたしをささえられる。
しかしわたしの魂を滅ぼそうとたずね求める者は
地の深き所に行き、
つるぎの力にわたされ、山犬のえじきとなる。
しかし王は神にあって喜び、
神によって誓う者はみな誇ることができる。
偽りを言う者の口はふさがれるからである。

魂が求めるだけではなく、「水なき、かわき衰えた地にあるように」肉体が、「あなた」を慕いこがれるのだ。「わたしが床の上であなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもって、もてなされるように飽き足り」る。「髄とあぶら」とは、神に捧げられる生贄の、もっとも美味な部分である(注7)。この詩篇には、「髄とあぶら」のように、驚くほどに官能的な表現が随所にみられる。しかもそれは、夜のふけるまま、床の上で「あなた」とかわされる交わりとして書かれている。ここには、生命を根本から支え、やしなっている官能がある。官能を何かの内側に押さえ込むのではなく、官能のむこうがわに溢れていっている。そこにいてくれる、神、と呼ばれる存在の安らかさは一体何だろう。もうどこにも嘘はないという激しさの向こうに、横たわっている、やさしく安らかな場所。


     *

ペルトの曲で、「われは信ず」ではじまる信仰告白の文言に旋律をつけたものがある。歌詞はラテン語だが、日本カトリック司教団認可の訳は次の通りである。


われは信ず、唯一の神、全能の父、天と地、
見ゆるもの、見えざるもの、すべての造り主を。
われは信ず、唯一の主、
神の御ひとり子、イエズス・キリストを。
主は よろず世のさきに父より生まれ、神よりの神、
光よりの光、まことの神よりの まことの神。
造られずして生まれ、父と一体なり、
すべては主によりて造られたり。
主は われら人類のため、
また、われたの救いのために天よりくだり、
聖霊によりて、おとめマリアより
御からだを受け、人となりたまえり。
ポンシオ・ピラトのもとにて、
われらのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られたまえり。
聖書にありしごとく、三日目によみがえり、
天にのぼりて、父の右に座したもう。
主は栄光のうちに再び来たり、
生ける人と死せる人とを裁きたもう、
主の国は終わることなし。
われは信ず、主なる聖霊、生命の与え主を。
聖霊は父と子とよりいで、
父と子とともに拝みあがめられ、
また預言者によりて語りたまえり。
われは一、聖、公、使徒継承の教会を信じ、
罪のゆるしのためなる唯一の洗礼を認め、
死者のよみがえりと、来世の生命とを待ち望む。
アーメン。

四方から集まってくるいくつかの男声と女声が、一箇所であつまり、触れあい、震えるように四方に散っていく。溢れるように声が、かがやく。自分の果てを超えていく、官能に打ち震える高い声、包むように広がる甘く低い声。その声の、前に前に生まれていく音の進みかたが、信じることのよろこびを伝える。ひたむきで飽くことなく、「あらゆることを信じます」という信仰告白を行っている。

聴いている時、胸の中に生まれる作用がある。意味を与えられるのだ。愚直なまでに、あらゆる事跡を信じる、と繰り返す告白。勝利や栄光という言葉は、いま現在の日本に生きるわたしたちには空虚な言葉かもしれない。しかし音楽が、キリスト教の信仰をもたない、詩篇にとっては厳密な意味での他者にも、「信じる」という場所を与えている。

詩篇そのものの力に加えて、そこにはアルヴォ・ペルトという音楽家の思想が与っているはずだ。ペルトの音楽を聴き、評する人々に、ミニマル・ミュージックのような形式をもちながら「ミニマルが排除した内なるものを完全に音そのものが集約している」(注8)という考えを抱かせ、また、現代音楽の技巧やパフォーマンスの革新からは、一歩違うところに立ち、「前衛が失速した今日、ひとつの可能性を示すものとして多くの支持を得ている」(注9)と言わせるものは何なのか。技法に還元される問題なのか、また宗教音楽を多く作曲しているのは事実だが、果たしてそのようなテーマの問題なのか。それを見極めてゆくには、わたしたちは、まだあまりにペルトという音楽家の仕事が生まれた瞬間に近すぎるのかもしれない。ペルトがいる場所、立っている場所、立たされている環境は、それだけわたしたちがいる場所に近い。

音楽が、わたしたちに、信じることを与えてしまう。到底信じられないことを。わたしたちの現実にはありえないことを。わたしたちが生きる、矛盾に満ちた現実、わたしたちを取り巻く後戻りできない科学知識、複数の言語、複数の文化。わたしたちというひとつの文化圏に生まれ育った人間がけっして自分のものにはできない文化の違い。その身体になれるはずもない、もう一つの身体を愛しているときに、音楽が、差し込んでくる別の光になっている。信じられるはずがない、安らぎ、憩うことのできないはずの場所に、音楽が、わたしを重ねてくれる。

「愛している」とこの世に向けて言いたい時、どんなにこの世を愛しているか、でもそれを言うのが困難な時。それでも、「愛している」と言おうとすることを、光に向かわずにいられない植物のように、生まれた場所に帰らずにいられない魚のように、自分のどこかに書き込まれてしまっている人間たち。書き込まれていながら、その不可能さにうつむく人間たち。

心からなるものでなければ、信仰になど、誰が身を預けられるだろう。わたしたち自身の中にはげしくある、根元的な信仰を求める欲望を、いったい現代の何が受けとめうるのだろう。

ほんの小さな救い。けれど、人の心の中に埋もれている、報われること、あがなわれること、答えをあたえられることへの望みが、新鮮に湧き出る水のようなやさしいものに撫でられる。「これは嘘ではない」と。

どんなフィクションもない、どんな作りごとも微塵もない、そういう欲望の果てにしかない、この上なくやさしい場所がある。あなたも、あなたも、あなたも、あなたにとっても嘘でない場所、嘘でない言葉。そんなありえないものが、音楽の時間の間だけ、存在している。音楽の時間から、ほんのわずかであっても、わたしたちの現実の時間へ。






注1 黒田恭一「タブラ・ラサ/アルヴォ・ペルトの世界」CD『タブラ・ラサ』ポリドール、1984年
注2 白石美雪「アルヴォ・ペルトについて」CD『アルボス《樹》』ポリドール、1987年
注3 歌詞はラテン語・日本語訳ともにCD『アルボス《樹》』(ポリドール、1987年)による。
注4 石黒則年『詩篇(73-150篇)』新聖書講解シリーズ旧約12、いのちのことば社、1988年、370頁
注5 同書、石黒、372頁
注6 『聖書』日本聖書協会、1955年、800−801頁
注7 富井悠夫『詩篇(1−72篇)』新聖書講解シリーズ旧約11、いのちのことば社、1988年、405頁
注8 前掲、注1白石
注9 柿沼敏江「ギドン・クレーメル&吉野直子デュオ」(鏡の中の鏡・1978)CD『Insomnia(眠れない夜)』フィリップス、1996年



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